2019年3月 日本文化コラム

【行事】芸術へと昇華した身代わり:『人形』

【行事】芸術へと昇華した身代わり:『人形』(雛人形の画像)

「知らざりし大海の原に流れきて ひとかたにやはものは悲しき」(紫式部『源氏物語』巻12「須磨」)

(訳:人形(ひとかた)のように 見知らぬ大海原に流れてきて、ひとかたならず悲しい思いをしているわが身であるよ。)


まだ梅の時期で桃の開花には少し時間がありますが、今年も新暦の桃の節句を迎えました。旧暦の3月3日は新暦の4月上旬ですので、あと1ヶ月ほど、各地でお雛さまにちなんだイベントが開催されていることと思います。

ひな人形、市松人形、五月人形など、私たち日本人は生まれたときから煌びやかなお人形に囲まれて暮らして来ていますが、このような人形文化を形成する国は、東アジアでは日本を置いてないのだそうです。お隣の中国や韓国ではひな祭りに相当するお祭りはありませんし、韓国では文明開化以前はむしろ子どもがお人形遊びをするのはタブーだったそうです。

世界の多くの原始宗教では、人形が魔除けや呪術の対象として利用されて来ました。日本の縄文時代の土偶はほぼ100パーセント、また他の文化でも古代の人形の多くが女体を模ったもので、地母神として子孫繁栄や豊作を願って祭祀に利用されたものだったと考えられています。日本の土偶はゴミ捨て場とされるところから故意に壊したり、焚き上げたものが見つかっており、土偶が悪魔祓いの対象として利用されていたことが考えられます。

日本では、古墳時代になると埴輪(はにわ)が作られるようになります。埴輪が作られる以前は、貴人が亡くなるとその従者を陵(みささぎ)の周りに生き埋めにする殉死の風習がありました。生き埋めにされた人々の泣き声が聞くに堪えないので、見かねた野見宿禰(のみのすくね)が天皇に進言し、人々の身代わりとして人型の埴輪を捧げるようになったということです。

人形は、古くは「ひとかた」「かたしろ」と呼ばれ、草木で人を模ったもので体を撫でて身の穢れや禍を移し取らせ、川や海に流しました。冒頭の歌は源氏が須磨に流されていたころ、上巳の節句(3月3日)に行った人形流しのときに詠んだものです。

上巳の節句は中国に起源があり、この日に行われる水辺で穢れを清める「曲水の宴」という行事が秦代の中国で始まりました。この行事は杯をゆるやかな流水に浮かべて杯が自分の前を通り過ぎる前に歌を詠み、詠めなければその杯の酒を飲むというというもので、5世紀には日本でも宮中の行事として行われていたことが『日本書記』に記されています。水に穢れを流すというこの行事が人形と結びついて、ひな祭りの起源になったとされています。

子どもの身代わりとしては、上流貴族の間では天児(あまがつ)、庶民の間では這子(ほうこ)という人形が作られていました。これらは子どもの枕元に置いて病気や災厄を移しとらせ、海や川に流したり、焚き上げたりしてお清めとしました。

このような人形は厄払いとしての役目だけではなく、しだいに子どもの玩具としての役割も持つようになっていったようです。『源氏物語』では、天児に関する記述とともに、「ひいな遊び」に関するくだりがいくつも見られ、日本ではこの時期までには人形が玩具としての地位を確立していたことがわかります。

ひな人形が現代のように部屋に飾るための観賞用に作られるようになったのは室町時代からと言われています。江戸時代には、嫁入りの道中の禍いから守ってもらうために、娘が人形を抱いて輿に乗ることが慣わしとなり、武家や公家にも広まってひな人形は嫁入り道具としてしだいに高級化していきました。

私たち日本人の生活になじみの深い美しい人形たちが、同じ起源を持ちながら東アジアではユニークな存在として発展していったことは意外でしたね。お人形本来の意味を考えつつ、美術工芸品としてこれからも楽しんで行きたいものです。


※この記事は、2013年3月6日に配信された、NPO法人日本伝統文化振興機構メールマガジン『風物使』の一部を編集・転載したものです。

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